DX人材について考える🤔

YOASOBIの「夜に駆ける」って曲にハマっている今日この頃ですが、皆さまいかがお過ごしでしょうか。

あの曲の芸術的な旋律(←なんて表現したらいいか分からず笑)に惹きこまれたのが始まりでしたが、意味深な歌詞も世界中の人を魅了するポイントかもしれませんね。私はハッピーエンドが好きなので、あの曲に出てくる2人はきっと、汚い面もあるこの世界にも何かしらの希望を互いに見出し、手を取り合って生きていくことを決意したと信じていたいです。(素直に歌詞を追ってくとそうは読み取りにくいのが儚いですが・・)

 

さて、冒頭から脱線しましたが、最近流行っているデジタル人材、DX人材という言葉。要はデジタル技術を活用し、業務改善(ここでいう改善は、単なる効率化からビジネスモデルの転換まで、様々な規模が有り得ます)を図れる人のことですが、こういった人材はどうやって育てるのか、デジタル庁新設も決定された今、社会で最も大きな課題の一つと言えるでしょう。

今回読んだ本『DX人材の教科書』は企業等に研修やコンサルテーションのサービスを提供している起業家が書いていることもあり、ビジネス現場とエンジニアをいかに繋ぎ、消費者目線に即したビジネス改善ができるようにするかのマインドセット、DX人材の要件のようなことは書いてあったのですが、では具体的にどうやって人材育成をすれば良いかという観点の気づきは少し薄かったように思います。そこまで書いちゃうとサービスが成り立たなく虞もあるので、当然かもしれませんが。

(特定の問題意識を持って本を読むことが多いので、それが読後に解決できてないとモヤモヤしますね・・だから自分は小説の方が合ってるな~とつくづく思います・・)

 

私がこの本から引き出したかった問題意識はずばり「リカレント教育」にあります。

ジョブ型雇用という言葉が浸透してきてはいますが、多くの社員の生活を守らなければいけない日本の大企業は新卒、終身雇用をそう簡単には止められないのが現実です。そして大企業の雇用形態が変わらない限り、その大企業に影響を受けてあらゆる意思決定をせざるを得ない中小企業含め産業界の抜本的改革にはなりません。

したがって、多くの人が学部卒で就職し、社会人になってから何かの勉強をし直したいと思ったら企業内研修を受けるか、自腹でプライベート時間を使って学ぶしかありません。たまに優良企業だとMBAをとるための海外留学なら送り出してくれたりする企業もありますが、経営学だけではDX人材になれませんよね。。

 

『DX人材の教科書』にも書いてありましたが、企業はDX人材の育て方が分からないからといって現役社員への投資を惜しみ、これからの時代に必要なスキルを新卒学生に全て期待するのは間違いです。大学だって、ビジネス現場で発揮できるDXスキルは産業界と協力していかなければ追求しきれないでしょう。

DX人材として活躍したい、学部時代では十分学びきれなかったスキルを習得してキャリアアップを図りたい社員は多くいるはずです。そういった社員のやる気を削がず、個人のキャリアプランに合った再教育が長期的には企業にもプラスの効果をもたらすことを信じるべきと思うのです。(どうしても効果が表れるまではコストに感じるでしょうが、教育は長期的目線でしか効果を得られないのが実情です)

 

つまりは、「リカレント教育」に対する産業界の意識改革ですね。最初はフルタイムとは言わずとも業務後の大学院通学・通信制受講で、また企業からの学費支援もなしから始めてみても良いと思います。今でもアンテナの高い人は自腹で大学院に通っていたりするので(かなりストイックで尊敬を通り越して敬遠されてしまう人種かもしれませんが・・)、企業側が積極的に後押しの声を上げてあげるだけで踏み出せる人は多いのではないでしょうか。特に大企業は十二分の給料があって自己投資に使えるだけの貯蓄が若手社員のうちからある人も多いので。(私自身も二年程ですがいわゆる大企業に勤めていたこともあり、特に出費を意識せず生活していてもそれなりに貯まった方だと思います)

 

勿論、リテラシーレベルであれば企業内研修で済むのではないか、実際企業向けに研修サービスを提供している企業はあるのだし・・と思われるかもしれません。ただ、「その程度」で本当に大丈夫でしょうか。

昨年度から、全ての大学生が身に着けるべき数理・データサイエンス・AIのリテラシーレベルの素養を身に着けさせるためのプログラムを開講する大学の認定制度というのが始まり、関連事業に年間10億円規模で文部科学省が予算をつけていたりもします。そのような現状を見ていて、企業がつけ刃の研修を始めたところで、本当に業務改善が図れるレベルの知識・素養が身に着けられるのかは疑問です。(少なくとも私が経験した大企業の研修では、プログラミングの基本的コードの書き方、デザイン思考を題材にしたワークショップ体験ができる程度のもので、あまりその後に繋がるものが得られたという気はしません)

また、欧米では修士・博士が当たり前と言われていますが、それは学部は教養課程で、専門性はそのあと身に着けるべきものという考えが強いためです。日本の大学も(文系は特に)殆ど勉強せずとも学士取得はできるのですから、その後どこかのタイミングで修士・博士レベルの専門性を身に着ける機会が与えられなければ同じ土俵で国際競争に勝てるわけありません。

 

最初は自腹で、業務後の時間を使ってというところからかもしれませんが、やはり一定の効果を感じられるようになってきたらゆくゆくはフルタイムで、また企業から生活上の保障も受けながら再教育を受けられるのが理想です。専門性は「ながらやり」ではなんだかんだ身に付きませんし、そんなタフな人も珍しいでしょうから。

まずは、どうやったら大企業のおっちゃんのマインドを変えられるかが一番の問題でしょうね。。私も中にいる時その問題はトライできませんでした(というか再教育の価値って自身の体験を以てじゃないと中々語りにくいんですよね・・なので私もここまで偉そうなこと言いながら果たしてその効果如何ってところは説得力を以て説明できないと思います)。

他人事な言い方になってしまいますが、企業マインドがこのまま変われなければどんどん競争に負けていって50年後、100年後のスパンで考えたら大企業といえど消えていってしまうのかもしれません。まあそれも栄枯盛衰というのであれば、受け入れられないこともないかもしれませんね。

 

最近流行りのテーマとしてDX人材を考えてみたものの、私自身「どげんかせんといかん!!」って程の熱量を感じてないので、若干ドライな文章になってしまった気がします😅日本ひいては人類の進歩のためには重要なテーマであるものの、今すぐ目の前で困っている人が出てくる話でもないからかもしれません。

ともあれ、教育の側面から考えるとDXに限らず様々な分野でリカレント教育の重要性は語れるものだと思っているので、企業の人材育成は適宜高等教育とも連携しつつどうあるべきなのか、今後も考えていきたいです。

では来週も頑張りましょう✊

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ディズニー全集新刊✨やっぱり心洗われる~😊

今週は、最新作『ラーヤと龍の王国』に至るまで、ディズニーが生み出してきたありとあらゆる作品、そのバックにいたアニメーターやアーティスト、イマジニアの活躍秘話が纏められた全集(2021年5月発売)を入手したので、久々にディズニーの世界に浸っていました🙌(といいながらほぼ毎週ディズニー+で作品を鑑賞しているのですが笑)

 

ディズニー作品を観たことないって人はあまりいないんじゃないかなと思うんですが、大人になるとけっこう好き嫌いが分かれますよね。ジブリ作品とかに比べて分かりやすいテーマ、ストーリーラインが単純、子供っぽいという人もいるんですが、私は逆にそのシンプルなメッセージ性、真っ直ぐさみたいなのに惹かれて何年も何回もリピート鑑賞しています✌

中でもプリンセス作品は自分の人生や考え方にも少なからず影響を与えたと感じています。健気だけどどこか他力本願なプリンセスから、ピュアな情熱を持ち自分の力で切り拓こうとする強く優しい現代のプリンセスへ、時代とともに変わりゆくプリンセス像を面白く、心強く感じますし、彼女らそれぞれが持つ芯の強さ、聡明さ、信念のようなものに女性の強さと美しさを感じ取り、自分もそうでありたいとどこかで憧れを抱いてきました。

 

特に好きなのが『美女と野獣』のベルです。生粋のお嬢様ではない町娘、読書好きなところに親近感を覚えるとともに、頑固で変わり者と言われながらも、女性には本や勉強が不要と馬鹿にされていた時代の先を行く賢い女性で、家族想いの心優しい娘でもある彼女を素直に格好良いと思います。そんな真っ直ぐさ、気丈さに自分を重ね、黄色のドレス含めずっと憧れてきました😊

2017年に実写化された際、エマ・ワトソンが演じたベルがはまり役すぎて、何度も見返しました・・『ハリー・ポッター』のハーマイオニー役といい、エマ・ワトソンは賢く強く、優しく、そして美しい女性の生きざまを演じるのが本当に上手というか、彼女自身が役とともにそういう女性に成長してきたんだろうなと思わせるところがありますね、本当素晴らしい👏

 

ディズニーのすごいところは、作品・パークともに世界観の作り込みに妥協がないこと。これは多くの人が賛同してくれると思うんですが、作品制作にあたってもリサーチ旅行や多くの検証を重ね、ストーリー背景もキャラクターも演出も、全てが丁寧に作られているんだなというのが作品を観てて毎回感じ取れます。どんな分野も極めるのは難しいものですが、ディズニーはウォルトの頃からその拘りを嬉々として追求し、楽しく完璧に近づけていってる、そのワクワクが世界中の人に伝わり、魅了しているんだろうなと。書いてたらウォルト・ディズニー・カンパニーに入りたくなりますね~、オフィスも人もクリエイティビティに溢れていて、とても刺激的で楽しい毎日なんだろうなと妄想します。笑

日本は従来、趣味を仕事にしない方がいい、仕事は遊びじゃないんだから気合い・根性で歯食いしばって頑張るものなんだ!という昭和の価値観が蔓延してきましたが、漸く最近になって「好きを仕事にする」ことの魅力を体現する人たちが現れてきてますよね。ディズニーはまさにその権化、引き続き見習いたいところです🌟

 

また、ディズニー作品は音楽からも目が(耳が?)離せません!アカデミー賞にも多くの部門でノミネート・受賞に至っており、正に作品そのものが総合芸術なのですが、特に1990年代以降のディズニー作品は音楽の魅力が半端ないです><

アラン・メンケンとハワード・アシュマンという黄金コンビは広く知られるところですが、彼らによって、アニメーションの強み押しだったディズニー作品は、ブロードウェイミュージカルとの出会い・融合を果たし、インスピレーションに恵まれた次のステージへと突き進むことになったのです。90年代以降のヒット作品の創出力といったら・・ウォルトが亡くなり、それまでスタジオを牽引してきたナイン・オールドメンと言われる精鋭部隊も続々と引退し方向性を見失いかけているようにも見えたディズニーを「不朽」にし、絶対的地位に至らしめたのはこの頃なのではないかと思います。

 

と、雑駁な文章になってしまいましたが、私はこれからもディズニー作品を愛し続けますし、子供ができたらできるだけ多く一緒に観て、また新鮮な感動を味わいたい、そして子供にも真っ直ぐな想いを何か感じ取って器の大きな人になってほしい、心からそう思います^^

最後に、私が一番好きな言葉を紹介して終えたいと思います✍

 

「逆境で咲く花は、その尊さと美しさを増すという」(映画『ムーラン』より)

 

辛いとき、苦しいときこそ強さと優しさを忘れず誰かのために立ち上がれる、そんな人でありたいです。ちなみに、雑誌『ディズニーファン』7月号で誕生年月日からどのプリンセスタイプかを占えるページがあって、見事ムーランだったのが嬉しかったです😊

(そこはベルじゃないんかーいという感じですが、詰まるところみんな魅力的なんです、ディズニープリンセスは(笑)好きな言葉第一位がムーランなのは本当です。)

ではでは、素敵な1週間を!!

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ディズニー全集

 

いじめの考察~ドラマ『ライフ』から~

5月も終盤ですね~、皆さまいかがお過ごしでしょうか😊
 
さて、今週は本でなくドラマを題材に取り上げたいと思います。というのも、先週は有休をとって箱根に行ってたのですが、そこでたまたまテレビをつけていたら北乃きいさんがバラエティー番組に出ていて、私の中で北乃きいさんと言ったらこれというドラマを思い出したのです。そのドラマをこの1週間見返して、ある種の感慨というか、思いに耽っていました。
 
 
それが、2007年に放送されていたドラマ『ライフ』です。権力者の父と家を空けがちな母を持ち、裕福な家庭に育った女子高生「マナミ」が気に入らない同級生をターゲットに次々と陰湿ないじめを繰り返すお話で、北乃きいさんが演じた「アユム」も最初こそマナミと仲良くしていたものの、ひょんな誤解でマナミの彼氏をとろうとした裏切り者扱いをされてしまい、教科書や机に落書きされる、トイレで水をかけられる、机を投げ捨てられるなど壮絶ないじめの標的になってしまいます。上記いじめにも暴行罪や器物損壊罪にあたる行為が含まれていますが、より深刻な殺人未遂、放火の教唆犯としても十分当たり得る行為をマナミはしており、もはや高校生のいじめに収まる範疇ではなかったです。。
 
 
私自身、このドラマを初めて見た2007年当時は中学1年生とかで、思春期真っ只中かつ部活動に入ると厳しい上下関係があるのだろうかとか新しい世界に怯えてもいた頃だったので、率直に言ってこのドラマは非常に怖かったです。笑
結果的にはこのドラマのような壮絶ないじめを見ることも飛び降り自殺を図るような友達を見ることもなく済んだのですが、改めて見返してみると、学校という狭い世界で生きていた頃独特の恐怖感というか無力感のようなものを思い出しましたし、大人になるとつい働く大人同士として先生の目線で話したり物事を見ようとしたりしてしまいますが、教育をテーマに生きている自分としては、そういう狭い世界で必死に毎日を生きている子供達にしっかり目を向けられていないのではとはっとさせられるものがありました。
 
世の中100%善良な人というのはおそらくいないでしょう。人間誰しも善悪どちらの面も持ち合わせており、大人になっても意地悪なことを言ってしまったり不快な思いをさせるようなことをしてしまったりと、中々完璧な振る舞いなんてできません。ドラマは誇張している面もありますが、日常を振り返れば程度の差こそあれ「いじめ」は日々どこかで起こっており、誰かが傷つけたり傷つけられたりしているのだと思います。
 
 
それでも、子供達の世界で起こるいじめは職場での嫌がらせとはちょっと違う、より人間性の形成にも大きく影響を与える重大な問題と言えます。社会に出れば自分と合わない人とも折り合いをつけていかなければいけない、とは言いますが、仕事とプライベートは完全に分けて考えられ、自分次第でいくつでも異なるコミュニティ、世界で生きられる選択肢を持っている点で社会人は気楽です。最悪、転職したり休職したって人生なんとかなりますし、みんな独自のプライベートがあるので職場で他の人に嫌がらせをするのは余程暇な人だと逆に割り切ることもできます。
まあそれでも、暇なおじさんってけっこういて、指導という名の下に不快なことをわざとしてくる器がなってない人に精神的にやられてしまう若手がいることも経験上知っているので、それはそれで弱い者いじめだと思いますし、本当に許せなかったです。が、最近はパワハラという言葉も浸透してきて、より声を挙げやすい環境ではありますよね、さすがに大人になると物理的ないじめはなくなりますし。。
 
 
話が若干それましたが、自由に所属するコミュニティを選べない生徒・児童らは、同じメンバーでの閉ざされた教室という世界が生活の中心になってしまいやすいです。そして、学校は仕事のように明確なノルマや業務目標が必ずしもあるわけではない、つまり人によって勉強への意識は様々で、「これをやってさえいれば居場所がある」というものがなく、どうやって教室での立ち位置を保つか、漠然とした不安をいつも抱えていることと思います。
そのため、自分の存在価値を交友関係や部活動など、学生の本分と言われる勉強以外のところに求める人も一定数いて、そういうカオスな共鳴がすれ違い、未熟な精神状態にあると「なんかむかつく、気に食わない」からいじめが発生し、毎日同じ世界の中でそれが習慣化、エスカレートしやすいというわけです。いじめをするくらいならもっと自分のために時間を使うべきだということが理解できないのは馬鹿だと割り切って考えられればいいのですが、プライベートが切り離されてない分時間は有り余ってますし、なんだかんだいじめによって日々の「生きやすさ」が左右されてしまいます。
 
 
ドラマ『ライフ』を見ていても思ったことなのですが、いじめにおいて「される側」に必ずしも問題があるかというのは分からないものの、いじめを「する側」にはほぼ間違いなくといっていい程家庭環境に問題を抱えているケースが多いと思います。よく「いじめられる側にも問題はある」という言葉がありますが、思う壺のような反応をしてくれて面白いからとか、どんより暗い態度で誰が見てもムカつくからとかいくら理由を並べてみても他人を一方的に、故意に傷つけることを正当化することはできません。いじめは「する側」の捉え方、考え方に問題があるのです。たとえ形勢逆転していじめていた側の人間をいじめられる状況になったとしても、同じ土台に立ってはいけません。
 
 
では、いじめをする側の問題とは何か。それは家庭環境、主に母親の無関心だと思います。『ライフ』に出てきたマナミも、家庭は裕福で、父親は常にマナミを信じ、わがままを叶えてくれる優しい人でした。県議会議員兼社長だったにしては、ちょっと視野が狭いというか人格が成っていないように思える場面も多々ありましたが、少なくともマナミにとっては最大の味方と言える人でした。
一方、母親はキャリアウーマンなのか滅多に家に帰らず、ドラマにも1回も出てきませんでした。作中、マナミが寂しそうに大邸宅の食堂で一人食事をしているシーンが何度かありましたが、彼女はどこかでそこはかとない淋しさを抱え、自身の承認欲求を満たせる場を求めていたのだと思います。
ドラマ終盤、マナミ自身がいじめられる番になった時、彼女は必ず味方になって学校に怒鳴り込んでもくれるであろう父親に自分がいじめられていると訴えなかった(いじめていた頃は自分が被害者と嘘をつけていたのに)シーンがありましたが、これは友達を失い学校での存在価値を失っていたマナミにとって両親に心配をかけないこと・自分は楽しんでいると見せることで最低限のプライド(承認欲求)を死守したかったのかもしれません。自信が持てない時こそ、大切な人に心配をかけたくない、自分がもっと惨めになるから・・そんな気持ちはわかる気がします。。
 
 
全ての子の承認欲求を満たしてあげられればと思いますが、学校は誰か一人のためにあるのではありません。まだ未熟な子供達一人ひとりの人格を全面的に肯定し、可能性の芽に一番真剣に向き合い神経を注げるのは、ほかでもない家庭の保護者しかいません。
ネグレクト(無関心)はある種の虐待であり、表面的に怒る・褒めるより質が悪いかもしれません。自分の存在価値をただでさえ見失いやすい思春期、「自分のことを見てくれている」という感覚を家庭で満たせなかった子は強がったり空元気に振舞ったり、本当の自分を出す場を失って歪んだ発想をしてしまうようになるケースが多いのではないでしょうか。逆に親がしっかり子供の本音に向き合い、どんな特性でもいいので認め、「ちゃんと見てるよ。どんなことがあっても味方だから、自信を持って歩いていいんだよ。」と態度で示せることがどれ程重要か。
自身を振り返っても、そうしてきてくれた両親を悲しませたくない、だから立派な人になりたい、人に優しくありたい、そう思える自分を作ってくれたことに感謝の気持ちで一杯です。(この親の承認は父母どちらもあれば申し分ないのでしょうが、父親だけだと十分な効力を発揮しない場面も多いのか・・?とドラマを見ていて感じました。まあ母親の愛情は大前提というか、父親は仕事という言い訳もつけられ実際多くの家庭で母親が子育ての主導権を握っている中、母親からの承認を得られない子達が淋しさを感じるのは必至かもしれません)
 
 
私は常々、教育現場における課題は先生や保護者で抱え込む必要はない、地域や民間企業で働く社会人など、多くの大人の手を借りて社会全体で子供達を育てていく環境を作るべきだと思っています。最近は、それが先生の業務負担軽減にも繋がると信じています。いじめ問題を考えるにつれ、そうした環境から生まれる子供達にとっての「ななめの関係」がどれ程有意義なものか、教室という世界を広げ、自分らしく頑張るための気づきや勇気をもらえる場になり得るか、改めてビジョンを膨らませることができました。
 
 
ドラマの中でも何度か出てくる「なんで人の痛みが分からないのか」という、いじめの被害者からの悲痛な言葉が今も胸に刺さります。いじめをするというのは精神的に未熟なことの表れです。親は無関心で承認欲求が全然満たされていない一方、大した苦労もせず人の痛みが分からない子、これは一番怖いかもしれません。こういう痛みは経験を以て知ることができれば一番身に染みるのかもしれませんが、みんなができるとは限りません。そんな時、苦しかった・悲しかった過去を乗り越えてきた大人達の力強い言葉に出会えることが子供達にとってどれだけ大きな財産になるか。
そしていじめは生徒同士だけでなく、先生から受ける場合もあります。いじめを見て見ぬフリをする教師も加害者です。いずれにせよ、学校というのは狭いコミュニティです。よりオープンな場となり、人間関係のいざこざで人生を狂わす子供達が一人でも少なくなることを願ってやみません。
 
 
今週はちょっと重めのテーマでしたが、一度深く考えることができて良かったです。それではまた👋

個を生かす教育の実現も、先生の働き方が変わらなければ始まらない😢助けたいけどどうしたら・・?

GW明け疲れますよね~ちょっと蒸し暑さも感じてくる今日この頃、有休をとって箱根旅行を満喫しつつ思想の旅へ。。。

 

さて、今週手に取ったのは山口裕也さんという、杉並区の教育委員会で研究員をされている方が書いた『教育は変えられる』という本です。表紙に「これからの教育が向かうべきビジョンとロードマップのすべてがここに描かれている」となんとも興味をそそる一言があったのですが、読後の感想としては私の問題意識を大きく外れるものではなかったなあというところでしょうか。書かれていた問題が浅いということではなく、むしろ根深い問題すぎて、この本に書かれている杉並区の事例だけでは語り尽くせないのだろうと思い、壁を突破しきれない気持ちになったのです。

 

作中に何度も出てきて著者が一番主張したかったであろうことは、「皆同じ」から「皆違う」への発想の転換、またそれに伴うあるべき教師像の役割変化です。私自身いわゆる「ゆとり世代」で、「みんな違ってみんないい♪」「ナンバーワンにならなくてもいい、元々特別なオンリーワン♬」といったどこぞの歌で聞くようなセリフを浴びてきた一人であって、その価値観には大賛成です。大量生産時代に繰り広げられた激しい競争社会、24時間働けますかの根性理論を生き抜いたおじさまたちには確かにある種の尊敬の念は抱きますが、時代の進化と合わせて人の価値観もアップデートすべきです(勿論みながより楽しく、楽に暮らせる方向に)。

人は元来異なるバックグラウンド、趣味嗜好を持つものであるはずで、それらを殺さず生かし合うことでより充実した未来を築けることが理解できれば、職場における適材適所は勿論、学校での学びにおいても、弱点の克服は社会常識レベルで最低限にしておいて、得意を伸ばし刺激し合える環境を作る重要性に気付けるはずです。

 

ただ、個性を尊重しそれぞれの可能性の芽と向き合うにも、先生のキャパオーバー状態では無理です。今回読んだ本は、教育委員会という公教育の基盤作りを行う立場から書かれており、いわゆる官僚制に代表される縦割り・当事者意識の不在という課題をクリアするためのヒントは書かれていましたが(それも人員・財源を割くというシンプルな発想が根源的な課題解決に繋がっているようにも思えましたが最終的にはそういうところになってしまうのかなと・・)、あくまで行政機関で働く公務員の意識改革に資する話だったように思います。特に、教育委員会が地域の学校を「監督・管理する」というマインドから「支援する」という発想に切り替えることは現場感覚を生かす上でとても重要かと。

 

しかしながら、現場の先生は目の前の子供たちが繰り広げる葛藤、成長のドラマに毎日出会っており、言われずとも当事者意識は持っているところ、生徒の個に向き合う時間や労力が十分に割けていないことに苛立ち・やるせなさを感じているのだと思います。GIGAスクールで1人1台端末が整備されることが校務の削減、学習・成績管理の効率化に資するとも言われていますが、ICTを活用した授業設計を確立するまでの労力については軽視されており、結果サポートは十分といえるものではなく自治体によっては端末が納品されたというだけで配られていない、生徒が使える状態になっていない例もたくさんあると聞きます。こういった授業関連の対応は勿論、部活動の顧問を掛け持ちしている教員はより大変です。

文部科学省が教職員志望者や教職員同士の志気向上に資するようにと始めた「教師のバトン」プロジェクト(ツイッターハッシュタグ機能を活用して教員からの意見・エピソードをリツイートしていくもの)でも、心温まる日々の成長物語というよりは働き方改革が進まない現状への憤りが感じられるものも沢山寄せられているようです。

 

じゃどうするか。この本でもチーム学校の取組が書かれていますが、私も限られた学校職員だけで生徒一人ひとりに向き合うことには限界を感じており、上記のICTサポーター、部活動顧問含め、外部人材の活用をどんどん進めていくべきだと思うのです。

教職員の方は働き方改革というと、今ある業務量を減らすことをまず考えられる方も多いかもしれませんが、部活動顧問にしてもレポートの採点にしても、生徒の誰かにはとても重要かもしれない業務を一律になくすというのは危険かもしれません。一方で全てを担任の先生や学校内の教職員だけで担うには荷が重すぎる、そう少しでも感じるのであればもっと外の人を頼ってほしいのです。

 

私は2年間民間企業に勤めていましたが、ちょうどSDGsやESG投資が盛り上がってきた頃でもあり、社会貢献事業と位置付けて出張授業のようなもの始めキャリア教育や、帰国子女が多い会社ということもあってかインクルーシブ教育といったテーマでいくつかプロジェクトを作ろうとしていたことがありました。私は途中で転職してしまったため最後までプロジェクトの遂行には携われませんでしたが、その活動を通して思ったのは、「一般企業で働くサラリーマンたちも教育に貢献したいと思っている」ということでした。

お子さんをお持ちの方も多いですし、当たり前といえば当たり前なのかもしれませんが、寄付文化にしてもさほど大きな抵抗なく受け入れられ、利益が出なくてもいいから参加したいと思ってくれるプロジェクトが実施できる分野であるという点で、教育は他の産業と比べて大きなアドバンテージを持っており、サポートが受けやすいテーマであることは間違いありません。これを先生方にはもっと上手く利用してほしいです。

学校という世界は自分達の学生時代を思い返しても想像できるように狭い世界で、一定の慣習・風土が根付きやすい環境ではあると思います。ただ、そこに甘んじずオープンマインドで声をあげれば、いくらでも救いの手は得られるのはないかなと。

 

学校という場は特殊で、民間企業とは違って教育委員会文部科学省といった行政機関の指針をより絶対的なものとして見る傾向があるように思います。その裏返しで、中央がマニュアル的に手順や内容を示してくれないとできないといった声もあがりやすいように思います。そこを変えていくには・・ここまで考えてみると、もしかしたら教職員の方は、目の前の子供たちの指導への当事者意識はあってもその変え方、授業設計の方向性の舵取りについてはまだどこか「決めてもらう」のを待っているのところがあるのかもしれません。

『教育は変えられる』でも言われている当事者意識は行政機関だけに求めるべきものではなく、行政機関が現場の「サポート」をより真剣に、実効性のあるものにしていくためにも、現場の先生方自身も当事者意識を持って必要なタイミングで「助けて!」と主張することが必要な気がします(単に働き方改革といったざっくりとした業務削減の方向性ではなく、チーム学校的な発想における業務分担の方向で、「こういった人材・機器のサポートがほしい」など)。

こういった現場発信の問題意識に基づいた「地に足のついた」サポート活動をしていくうちに、民間の人材を活用するのに必要なこういう財政支援・システム構築が整ってない、法整備が新たに必要、など行政機関が担うべき制度面の課題もより具体性を帯びた議論が可能になると思うのです。どの分野においても現場が一番面白く、主張の説得性が高いこと、この社会人経験の数年でも感じたところです。

 

とはいえ、「その課題発信するための頭の整理の時間もないんだよ!」「日々目の前の業務に忙殺されるだけでエネルギー切れだよ!」といった声も聞こえてくるような気がします。そんなんじゃずっと現場からの発信もなく、上から適時適切なサポートが自動で降ってくるわけでもなく、コミュニケーション不成立で結局何も変わらず終わってしまう・・果たしてそれでいいのでしょうか。ここからが私の本当の問題意識です。

 

たしかに、どの組織においても中から変えていくというのはとても難しいことです。だから民間企業でいえばコンサルのような存在が経営改革に一役買ったり助言を与えることも多いのです。学校現場においても、外部の人が関わりやすい環境があればな・・と思うところ、色々と複雑な事情もあって先生達も気軽に外部への助けを求められない(正規ルートでも個人的なツテでも)状況なのかもしれません。。ここをどう切り込んで素直にSOSを出せる状況にしていけるのか、今後考えていきたいと思います。どこまでいっても想像論しか繰り広げられないので、いつか現場に飛び込んでみる必要があるのかなとも。

 

今はひとまず、私も目の前のマグロ漁船に酔わないよう目の前の業務一つひとつに当たれたらと思います。全国の先生、ファイト!!!

久っ々の更新🖋~今後の方針も含め~

こんばんは🌕
さて、長らく更新できていませんでした……入籍・引越し・部署の人事異動などなど、日々の生活での変化がめまぐるしかったというのもありますが、2ヶ月間ブログを書いてみて改めて何を発信していくべきか見直しを図っていました。
 
当初は、教育を中心に日記のように感じたことを書いていこうと思っていましたが、始めてみるとそれは案外難しい、というか「今週も書かなきゃ」とプロ作家でもないのにやらされ感が拭えず、あまり楽しめていませんでした😢
自分は社会人4年目に突入したところですが、これという大した実績も挙げていません。そんな自分の日々の思いつきや思考を読みたいと訪ねてくれる暇な人もそうそういないなと思うと一層モチベーションが高まらず。。
友達や知人にFBなどを通じて読んでね〜と言えば勿論見てくれる人は多少いるかもしれませんが、そういう内輪の力を借りても記事の魅力で人を惹き付けてることにはならないので面白くないなと(ただの意地かもしれませんが)思っているのと、なにより知り合いに自分の頭の中を公開するので見てねというのは特定の誰かに対するメッセージでもないのに小っ恥ずかしいので「今のところは」宣伝していません。
 
よく考えてみれば、その人となりを知りもしないのに、考えを知りたいという感情はきっと起こらないなと思うのですが、現職の業務内容や生活実態をオープンにすることはまだ抵抗がありますし変な問題や迷惑を引き起こすことも嫌なので…いつか環境も変わればそういうことも発信できればなとは思ってますが…
ということで、なんの実績もなく全てをさらけ出す準備もできてない今の自分の個人的意見・考えにいきなり付加価値を感じてもらえるわけもないので、せめて見ず知らずの人でも「ほお」と少しでも思ってくれることを発信したいと思い、色々考えた結果、、読書に行き着きました笑
教育に限らず幅広く関心を持ったジャンルの本を読んで、細かい要約まではしませんが、その世界観やメッセージに感想を乗せて発信していければと思います。
ただ、これも定期的に面白い本に出合えるとも限らないので、今後の方針と大々的にタイトルに書いてみたものの、実際は日々の徒然なる考えや日常を綴ってみたり、あまり変わらないかもしれません。笑
 
とまあ、ひとまず読書だと早速手にとってみたのはイシグロカズオさんの新作小説『クララとお日さま』です。昔から小説の方がさくさくのめり込んでいけるので好きでしたが、今回も近未来的でありどこか懐しさも感じるイシグロワールドに惹き込まれました。
この本は、人工知能を搭載したAF(AI Friendの略称でしょうか)であるクララが病気持ちの少女ジョジーに選ばれ、彼女の「親友」として、そしてジョジーを「継続」させるという彼女の母親の秘めたる望みとして、常に側で見守り、観察し、ジョジーにとっての「最善」を考え抜いて役目を終えていく様を描く、機械と感情という一見相反するものが美しく入り乱れた物語です。
ここでは、科学的なものを代表する人工知能と、お日さまの力に対する信仰といった反科学的なものが対立するのではなく、共存し、助け合っているとさえ思える場面が多々あり、そして「AIは複雑な感情構造を含めて人間を完全に学習できるのか」という命題については謎のまま(というか試す必要もなくなり)物語の幕は閉じられています。
(ただ考えてみれば、お日さまの治療力は一定の科学的根拠がありそうなので、クララはやみくもにお日さまが起こしてくれる奇跡を信じたのではなく、一定の条件を見定めて正確にジョジーに適用したに過ぎないのかもしれません・・そこら辺は曖昧に書かれていますが・・)
 
これまでAIやロボットが人々の日常生活に入り込む近未来を描く映画などは、大抵マイナスイメージというか、人間にとっては「敵」になってしまうパターンが多かったので、今回の物語を読んでその怖さが少し軽減されました。むしろ、時に非合理な感情に突き動かされ身勝手な考えに取り付かれる人間より、AFの方が余程けなげで真っ直ぐにその「生涯」を生き抜いたようにさえ感じました。
 
生涯未婚率の上昇、平均出産年齢の上昇などにより独身世帯や子供を持たない世帯が増える昨今、学習するAFのような存在がもっと手軽に手に入るようになったら人々は孤独を埋めるために買い求めるのでしょうか。AIはいつかその学習を極め、合理的判断のために持ち主の安全さえも危険にさらす選択をするのかもしれないと、ターミネーター的な展開をどこかで想定していたこれまでの自分なら怖くて手を出せないと思っていましたが、「持ち主の健康と安全を守る」という絶対的使命が最初にプログラムされていて、それが壊されない限りにおいては、人間以上に信頼のおける、最良の理解者であり助言者になり得るのかもしれないと感じました。それは、今回の「クララ」もそうですし、私の好きなディズニー映画『ベイマックス』に出てくる「ケアロボット」も彷彿とさせます。
 
一方、AIの欠点として、いくら学習しても人間の持つ複雑かつ千差万別な感情構造をAIは完全に再現することはできない、私達はどこかでそう考える節があります(今回の作品でもその部分について登場人物たちは懐疑的でした)。でも考えてみると、人間だって常に感情を働かせているわけではない、というより感情的であることを封じ込めるような訓練さえ受けているように思うのです。私達は、成長に伴ってあらゆる課題に立ち向かっていく際に「自分をメタ認知する」ことの重要性を説かれる場面があるのではないでしょうか。感情的に物事を判断せず、客観的に自分の喜怒哀楽その他の感情を捉え、できれば言語化し、可能な限り人に説明のつく冷静な判断をするように教えられるのです。それが他人と協調して社会生活を営むのに重要なことであることはたしかだと思います。
であれば、AIが感情「的なもの」を学習し、理解を示しつつも、様々なデータ分析から冷静な判断を示してくれるのは、いくら失敗と内省を繰り返しても完璧に冷静になり切れない多くの人間にとってはむしろ有難いことではないでしょうか。人間は感情100%から論理的思考を身に着けていくのに対して、AIは完全に冷静な側から感情を理解していくという、出発点が違うだけだと思うのです。
 
でも・・それでもやっぱりAFを買うことにまだ怖さを覚える自分がいます。それは、AFが人間にプログラムされていて、その製作者が悪意を抱けばいかようにも人間を傷つけるようにだってなれると思ってしまうからでしょう。(例えば、最初はいかにもけなげに買い主の味方でいるように見せかけて数年後豹変するようなプログラムだって可能なのではと・・)
人間は100%感情から入っている、弱い生き物です。どんなに冷静に生きている人にだって、つけ入る「隙」があります。それが人間特有の良さでもあります。でも、AIは上記のとおり出発点が真逆なので、究極的にはその「隙」がない(学習を通じて「隙」があるように見せかけるようには勿論できるでしょうが)。そんな程度の違い、「買い主の健康と安全を守る」という根本的使命がプログラムで起動しているうちは見過ごせるものですが、何かの事故や事件でそれが果たされなくなった時が怖いのです。一緒にいた時間が長ければ長い程、人間は愛着という、これまた非合理的かもしれませんが人間ならではの隙を見せてしまいます。一方でAFは・・残酷な程にそれまでと違う対応だってできてしまうのではないでしょうか。。
 
今回私が読んだ物語には、その辺りの結論(AFが人間の感情構造を再現できるのか、また変貌しうるのか)は書かれていません。ただ、AIが私達の生活にとって身近な存在になる日もそう遠くないと思われる今日この頃、読者に多くの思考余地を与える作品だと感じました。気になった方は、ぜひ手にとってみてはいかがでしょうか!
 
それでは、できれば来週もこんな感じで、読書本とともに思考の旅ができればと思います😊良い1週間になりますように🌟

モラトリアムと主体性~自分何したいんだっけ?症候群~

何がしたくてこの組織に入ったんだっけ・・若手社会人の多くが一度は考えたことのある悩みじゃないかと思います。最近(振り返れば社会人になってからずっとかもしれません?笑)、私もそういう思いに駆られました。

私の場合、一度の転職を経てライフワークは教育分野って決めてるんですが、今目の前にしている仕事がどうも思い描いていたビジョンや問題意識の解決に繋がっている気がしなくてもやもやしながら日々をこなしています。

本当は、環境を選べず自尊心も持てないで可能性の芽が摘まれそうになっている子供たちに寄り添って、より多くのチャンスを与えられるようなことがしたいと思っているのに、目の前にあるのは文書作成や進展性のない面会対応など、大事だし誰かがやらなきゃいけないことなのかもしれないけど、もどかしいことばかり。そういう雑務をこなした上でプロアクティブな発想をする元気も残ってないし、先輩達の仕事への向き合い方もどこかで諦めてしまったのか間違ってる気がする・・そんななんともやるせない日々が続いています。

 

組織って難しいですよね、仕事内容を選り好みはできないし自分の向き不向き、好き嫌いを押し殺してでも課せられた業務命令はほぼ絶対。今は自分の好きや得意をいくらでも仕事にできる時代になってきていて、それを体現している人たちも沢山いるので、ますます「組織で経験を積む」って決めた自分の選択を疑ってしまいたくなる瞬間が多々あって。。

自分の選択を後悔してるわけじゃないです。ただ、自分だけでなくそれぞれ熱い想いを持って同じ組織に入った同期とかが苦しんでるのを見るとますます、頭や心をただ「卒なくこなす」ために使うんじゃなくて、もっと寄り添うべき人のためプラスに使うためにどうしたら業務改善できるか、あるいはもっと良い意味での「ゆとり」を持つために職員を増やす、最新機器を導入するなどの環境変化をもたらせるか、真剣に考えてしまいます。まあ、闇が深すぎて一朝一夕に希望の光が見えてきそうな問題ではないのですが😢

まずは自分がやれることを無理ない範囲で気長に、長期的に考えていきたいと思います。

 

さて、話題は少し変わりますが、先日も少し紹介した文部科学省の取組「Scheem-D」のピッチイベント本番が2月19日(金)に行われました!

minsemma.hatenablog.com

私も大学のデジタライゼーションを見守りたい一員として視聴したのですが、学生による評価システム構築とそれによる主体性育成や、学生の勉学へのモチベーションを高め中退を防ぐためのカリキュラム・進路情報の共有システムなど、本当に色々な取組についてのアイデア披露がされてましたね。

 

ただ、これはマッチングのきっかけとなる「イベント」の位置づけなので、ここから互いのニーズを満たし合えるパートナーを見つけて実際の研究開発、実証に繋げ、各キャンパスへの普及を図る必要があります。今のところ、文科省としてはこのイベントを継続的に行い、適宜フォローアップも行うとしていますが、役所は激務かつ人事異動が激しく、ただでさえ継続的な事業を苦手とする組織文化である上に、こういう新しい取組支援って、一般企業が自社内コンペでも相当のリソースを割いていることからも分かるようにそんな簡単なことじゃありません。

今回のピッチイベントで披露されたアイデアのうち、何件が実証までこぎつけるのか、正直多大なフォローが見込めない役所の事業としては不安なところもあります。高等教育のデジタル化に特化した専門チームを設置して継続的にピッチイベントを開催、またメンターとしてもフォローしていってほしいと思いますが、どのような形でこの取組が発展あるいは解消されていくのか、注目したいところです。

 

それにしても、このイベントで紹介されたアイデアを見ていてつくづく思い知らされたのは、「日本の大学生の主体性の低さ」でした。

デジタル技術も活用しながら授業の質改善が図られ、勉学に面白みを見つけ、主体的に学ぶ姿勢に繋がっていけばいいと私も考えていますが、前提としてなぜこんなに学びへの主体性が育っていないのだろうかと考えざるを得ません。

 

その一端はやはり初等中等教育段階にもあるのかもしれません。受験勉強のHow toは一生懸命教えても、どうやって物事を考え、困難を乗り越え、問題を解決するのか、自分とはどのような人間で何がしたいのか、こういう根本的な、学習指導要領でも言われていたような言葉を引用するなら「生きる力」のようなものの育成は不十分なのではないかと。

 

しかし、私はそれだけではないと思います。大学生になったらいきなり何もかも分かるようになって、自分のすべきことも完全にクリアで、そのためのスキル習得に一直線、なんてほぼ幻想じゃないかと思います。人によっても成長スピードは違いますし、人生のどのステージで気づきを得て、心の底から学びたいと思うかも人それぞれです。ある程度の基礎知識を定着させた大学生だって、自分は何をすべきかわからない、だから勉学にも思うように打ち込めない、そんなモラトリアム期間を過ごしているのです。

 

私は自分の経験からいっても、別に勉強だけが大学生の本分ではないと思っています。部活動やサークル、アルバイト、留学、放浪旅、どれもかけがえのない経験や学びを得られる可能性を秘めていますし、時間と自由がある大学生にしか許されていないことは沢山あります。

「学びへの主体性」とは、自分の進むべき道を見極める能力、そしてその道を切り拓くために必要な知見を獲得する気力や推進力、こういったものなんだと思います。

いつかの記事でも書いたように、現在の大学生はジョブ型雇用のトレンド等も相まって具体的スキルが求められるようになってきており、それはたしかに授業から獲得できる専門知も含まれるでしょう。ただ、どこで必要なスキルを得るかは指定されていません。授業外の独自の努力でも構わない、むしろ自分の足で立って進むべき道を開拓できる主体性こそ、VUCA社会には欠かせない素養ではないでしょうか。

 

たから、以前言ったことと矛盾しているかもしれませんが笑、授業の質改善を受動的に待つだけでなく、大学生達には世界に潜むあらゆる課題を知り、その解決の一端を担うために自らがやるべきこと、学ぶべきことを明確にしていってほしいです。(勿論、授業改善の努力も継続的に行われるべきですが、どうも一足飛びには難しい部分が多々ありそうなので・・)

時間は有限です。大人たちも一生懸命、より勉学へのモチベーション向上のためのアイデアを出そうとしていますが、何のために学ぶのか、それを何に生かしていくのか、決められるのは学生自身なのです。人によっては大学生のうちだけでは足りず、将来社会人になってからもう一度学び直しに戻ってくるかもしれません。それでもいい、学びの扉は常に開かれているべきなのですから。でも主体性という心の灯は、最後は自分で点け続けるしかないのです。

 

こう考えていると、本当に必要なのは授業改善そのものというよりも、授業に限らず、学生自身の主体性を育む「気づき」を与えらえるような機会創出の手段を考えることなのかもしれないなと思いました。それは、初等中等教育段階でも行われているキャリア教育にも通ずるような、現在活躍している社会人との繋がりからヒントを得られるものかもしれませんし、地域社会や学内外の同級生らとの交流によるものもあるかもしれません。

大学生というのは、自ら関わっていこうと思えば社会人、学外、世界中、誰とでも繋がっていけるチャンスは多く存在していますが、主体性がまだ十分育まれていない大学生達にそういう機会を作ってあげようとするのは、案外高校生以下の授業カリキュラムに組み込むこと以上に難しいようにも思えます。ただ、現実として日本の大学生はその主体性に弱みがまだまだあるということで、デジタル技術を活用してでもしなくてでも、何かできることはないかなあと、もう少し思案したいと思います。

 

2月は平日にぽつんと休日がある週が2回もあって、なんか不思議な感じですね。明日から3日間も頑張ります🌟

ハッピーバレンタインデー💗

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今日は2月14日、そうバレンタインデーでした✨

運よく今年は日曜日だったので横浜に繰り出したのですが、あちらこちらにカップルの姿が・・まだ宣言下ではありますが、やはりこんな良い天気☀家の中でずっと動画を見たり勉強したりしてても鬱憤としますよね。

 

さて、バレンタインデーに女性が男性にチョコなどのお菓子をあげるという習慣が、とあるお菓子メーカーの商品戦略であり、日本ではつい最近広まった習慣であることはもはや有名な話です。バレンタインの由来が聖ウァレンティヌスという、3世紀後半当時ローマ帝国で禁じられていた結婚の儀式を密かに執り行い処刑されたキリスト教司祭であるということも、多くのサイトで紹介されています。

 

でも不思議ですよね。当時のローマにもルぺルカリア祭という豊作を祈る祭りの直前に、女性の名前が書かれた札を男性が引き、その札に書いてある女性と付き合う(祭りの間だけでなく本当に恋に落ちたカップルも多くいたそうです)という儀式があったようです。つまり、男女を引き合わせるイベントはあったのに、当時の皇帝は若者が戦争に行きたがらない理由を結婚に結び付け禁じてしまった。そのために、当時のカップル達は行き場のない恋に胸を痛めるしかなかった。聖ウァレンティヌスは彼らにとってまさに、愛の守護神のような存在だったに違いありません。

 

このエピソードから思うことが3つ。1つ目は、為政者の弱い心、それ故の間違った判断がもたらす犠牲の大きさです。

当時の皇帝クラウディウス2世は、出兵したがらない青年、士気の上がらない兵士という社会課題の原因を、結婚による故郷への愛着心と結論付けたのです。でも考えてみれば、故郷を想い、できることならずっと愛する家族と一緒にいたいというのは、古今東西共通の感情ではないでしょうか。ただ、どの時代でも悲しいかな戦争は存在し、意志に反して参戦せざるを得なかった若者はたくさんいるのです。

つまり、当時のローマ皇帝は良く言えば「故郷に愛する家族を残して出兵する若者の何とも言えず悲しい顔を見ることが忍びなかった」、悪く言えば「国のために(自分のために)誇らしく、果敢に戦う姿を中々見せてくれない兵士たちにやきもきした」ということです。

ただ、繰り返すようですが、洗脳教育でも受けていない限り、命を落とし二度と愛する家族と会えなくなるかもしれない戦争に進んで飛び込む人なんて普通いません。それを指示してでも国を守るべき立場にある為政者は、戦争が人々にもたらす深い悲しみ、苦しみ、また批判を背負い、共に乗り越える覚悟があるのか何度も自分の心に問うべきです。その覚悟がないのなら勿論そんな指示を出すべきではないですし、もし覚悟があるのなら、戦争をしてでも実現すべきビジョンを提示した上で、士気を高めるべく、国民にさらなる負担を強いるのではなく、自らが努力をすべきです。

そういう姿勢を見せられず、士気が上がらないことを若者自身の問題にしたことは、為政者たるにふさわしい心の強さがなかったんだろうなと感じてしまいました。

 

そして2つ目は、聖ウァレンティヌスのような偉人が紡いできた道の上に私達がいるのだなということ。これは当然といえば当然かもしれませんが、けっこう私は昔からアンネフランクやエジソンマザーテレサゴッホといった伝記を読んでは感銘を受ける質なのです。自分も生まれたからには何かしら信念を持って、100年後の未来に繋がる価値を残したいと密かに思って毎日生きてます。

なので、こういう自らを犠牲にして誰かの幸せ、価値ある何かを示そうと全力で生きた人のことを知るとどこか胸の熱くなる思いがしますね。命を懸ける、一生懸命って、言うほど簡単なことではないはずですよね絶対。まして、自分の家族でもなく他人のためになんて。

今はかなり平和な世の中になって、深刻に「どげんかせんといかん!」みたいな憤りを感じる機会は少なくなってると思いますが、それでも社会課題と呼ばれるものはまだまだ存在していますし、私のライフワークである教育分野でいえば、貧困に苦しむ子供、居場所のない子供、自尊心の育たない子供など、日々直接触れられていないだけで潜んでいる問題は沢山あると思うので、自分なりに全力で、後世に残せる価値創出を頑張っていきたいなと。

 

さて、バレンタインデーからどんどん離れていってる気がしますが・・最後3つ目。

これは、恋愛の形も色々という柔軟な価値観が比較的新しいものなのだなということ。

3世紀後半当時、結婚が禁じられていたわけですが、現代の感覚からすれば「じゃ事実婚で良いんじゃない」という発想もあると思います。結婚していなくても、カップルとして互いを思いやり、満たし合うことができれば円満な関係は築けるわけです。

しかしまあ勿論、当時そのような考えは「常軌を逸している」以外の何物でもないでしょう。。結婚していなければ子供を産むための男女の営みはおろか、そういった関係を匂わせる行為(キスやハグ)もできなかった環境だろうと思料します。それじゃ、結婚も禁じられていては何もできないじゃないか!となるわけですよね。その怒り?アドレナリン?を戦争にぶつけろということだったのかもしれませんが、そういう負の感情をエネルギー源にしたパワーってあんまり持続性ない気がします。常に気が立った状態にしておくのも大変そう。。って動物の調教じゃあるまいし、そんな風に兵士の育成を考えないでほしいですね。。

それに無論、この時代は前提として男女のカップルしか社会的には想定されていないわけですが、LGBTに属する人達にとっては結婚以前に恋愛感情すらおおっぴろげにできない、苦難の時代がつい最近まで続いていたのです。聖ウァレンティヌスが当時そのような人々の存在に気づいていたのか定かではないですが、きっとどのようなカップルにとっても愛の守護神としての振る舞いを貫いてくれただろうと信じたいです。

 

考えれば考える程、現代に生まれて幸せだなあと感じるバレンタインデーでした。

(なんかいつにも増して唐突な終わり方な気がしますがすみません笑)

それでは、良い1週間を👋

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Happy Valentine's Day💗