いじめの考察~ドラマ『ライフ』から~

5月も終盤ですね~、皆さまいかがお過ごしでしょうか😊
 
さて、今週は本でなくドラマを題材に取り上げたいと思います。というのも、先週は有休をとって箱根に行ってたのですが、そこでたまたまテレビをつけていたら北乃きいさんがバラエティー番組に出ていて、私の中で北乃きいさんと言ったらこれというドラマを思い出したのです。そのドラマをこの1週間見返して、ある種の感慨というか、思いに耽っていました。
 
 
それが、2007年に放送されていたドラマ『ライフ』です。権力者の父と家を空けがちな母を持ち、裕福な家庭に育った女子高生「マナミ」が気に入らない同級生をターゲットに次々と陰湿ないじめを繰り返すお話で、北乃きいさんが演じた「アユム」も最初こそマナミと仲良くしていたものの、ひょんな誤解でマナミの彼氏をとろうとした裏切り者扱いをされてしまい、教科書や机に落書きされる、トイレで水をかけられる、机を投げ捨てられるなど壮絶ないじめの標的になってしまいます。上記いじめにも暴行罪や器物損壊罪にあたる行為が含まれていますが、より深刻な殺人未遂、放火の教唆犯としても十分当たり得る行為をマナミはしており、もはや高校生のいじめに収まる範疇ではなかったです。。
 
 
私自身、このドラマを初めて見た2007年当時は中学1年生とかで、思春期真っ只中かつ部活動に入ると厳しい上下関係があるのだろうかとか新しい世界に怯えてもいた頃だったので、率直に言ってこのドラマは非常に怖かったです。笑
結果的にはこのドラマのような壮絶ないじめを見ることも飛び降り自殺を図るような友達を見ることもなく済んだのですが、改めて見返してみると、学校という狭い世界で生きていた頃独特の恐怖感というか無力感のようなものを思い出しましたし、大人になるとつい働く大人同士として先生の目線で話したり物事を見ようとしたりしてしまいますが、教育をテーマに生きている自分としては、そういう狭い世界で必死に毎日を生きている子供達にしっかり目を向けられていないのではとはっとさせられるものがありました。
 
世の中100%善良な人というのはおそらくいないでしょう。人間誰しも善悪どちらの面も持ち合わせており、大人になっても意地悪なことを言ってしまったり不快な思いをさせるようなことをしてしまったりと、中々完璧な振る舞いなんてできません。ドラマは誇張している面もありますが、日常を振り返れば程度の差こそあれ「いじめ」は日々どこかで起こっており、誰かが傷つけたり傷つけられたりしているのだと思います。
 
 
それでも、子供達の世界で起こるいじめは職場での嫌がらせとはちょっと違う、より人間性の形成にも大きく影響を与える重大な問題と言えます。社会に出れば自分と合わない人とも折り合いをつけていかなければいけない、とは言いますが、仕事とプライベートは完全に分けて考えられ、自分次第でいくつでも異なるコミュニティ、世界で生きられる選択肢を持っている点で社会人は気楽です。最悪、転職したり休職したって人生なんとかなりますし、みんな独自のプライベートがあるので職場で他の人に嫌がらせをするのは余程暇な人だと逆に割り切ることもできます。
まあそれでも、暇なおじさんってけっこういて、指導という名の下に不快なことをわざとしてくる器がなってない人に精神的にやられてしまう若手がいることも経験上知っているので、それはそれで弱い者いじめだと思いますし、本当に許せなかったです。が、最近はパワハラという言葉も浸透してきて、より声を挙げやすい環境ではありますよね、さすがに大人になると物理的ないじめはなくなりますし。。
 
 
話が若干それましたが、自由に所属するコミュニティを選べない生徒・児童らは、同じメンバーでの閉ざされた教室という世界が生活の中心になってしまいやすいです。そして、学校は仕事のように明確なノルマや業務目標が必ずしもあるわけではない、つまり人によって勉強への意識は様々で、「これをやってさえいれば居場所がある」というものがなく、どうやって教室での立ち位置を保つか、漠然とした不安をいつも抱えていることと思います。
そのため、自分の存在価値を交友関係や部活動など、学生の本分と言われる勉強以外のところに求める人も一定数いて、そういうカオスな共鳴がすれ違い、未熟な精神状態にあると「なんかむかつく、気に食わない」からいじめが発生し、毎日同じ世界の中でそれが習慣化、エスカレートしやすいというわけです。いじめをするくらいならもっと自分のために時間を使うべきだということが理解できないのは馬鹿だと割り切って考えられればいいのですが、プライベートが切り離されてない分時間は有り余ってますし、なんだかんだいじめによって日々の「生きやすさ」が左右されてしまいます。
 
 
ドラマ『ライフ』を見ていても思ったことなのですが、いじめにおいて「される側」に必ずしも問題があるかというのは分からないものの、いじめを「する側」にはほぼ間違いなくといっていい程家庭環境に問題を抱えているケースが多いと思います。よく「いじめられる側にも問題はある」という言葉がありますが、思う壺のような反応をしてくれて面白いからとか、どんより暗い態度で誰が見てもムカつくからとかいくら理由を並べてみても他人を一方的に、故意に傷つけることを正当化することはできません。いじめは「する側」の捉え方、考え方に問題があるのです。たとえ形勢逆転していじめていた側の人間をいじめられる状況になったとしても、同じ土台に立ってはいけません。
 
 
では、いじめをする側の問題とは何か。それは家庭環境、主に母親の無関心だと思います。『ライフ』に出てきたマナミも、家庭は裕福で、父親は常にマナミを信じ、わがままを叶えてくれる優しい人でした。県議会議員兼社長だったにしては、ちょっと視野が狭いというか人格が成っていないように思える場面も多々ありましたが、少なくともマナミにとっては最大の味方と言える人でした。
一方、母親はキャリアウーマンなのか滅多に家に帰らず、ドラマにも1回も出てきませんでした。作中、マナミが寂しそうに大邸宅の食堂で一人食事をしているシーンが何度かありましたが、彼女はどこかでそこはかとない淋しさを抱え、自身の承認欲求を満たせる場を求めていたのだと思います。
ドラマ終盤、マナミ自身がいじめられる番になった時、彼女は必ず味方になって学校に怒鳴り込んでもくれるであろう父親に自分がいじめられていると訴えなかった(いじめていた頃は自分が被害者と嘘をつけていたのに)シーンがありましたが、これは友達を失い学校での存在価値を失っていたマナミにとって両親に心配をかけないこと・自分は楽しんでいると見せることで最低限のプライド(承認欲求)を死守したかったのかもしれません。自信が持てない時こそ、大切な人に心配をかけたくない、自分がもっと惨めになるから・・そんな気持ちはわかる気がします。。
 
 
全ての子の承認欲求を満たしてあげられればと思いますが、学校は誰か一人のためにあるのではありません。まだ未熟な子供達一人ひとりの人格を全面的に肯定し、可能性の芽に一番真剣に向き合い神経を注げるのは、ほかでもない家庭の保護者しかいません。
ネグレクト(無関心)はある種の虐待であり、表面的に怒る・褒めるより質が悪いかもしれません。自分の存在価値をただでさえ見失いやすい思春期、「自分のことを見てくれている」という感覚を家庭で満たせなかった子は強がったり空元気に振舞ったり、本当の自分を出す場を失って歪んだ発想をしてしまうようになるケースが多いのではないでしょうか。逆に親がしっかり子供の本音に向き合い、どんな特性でもいいので認め、「ちゃんと見てるよ。どんなことがあっても味方だから、自信を持って歩いていいんだよ。」と態度で示せることがどれ程重要か。
自身を振り返っても、そうしてきてくれた両親を悲しませたくない、だから立派な人になりたい、人に優しくありたい、そう思える自分を作ってくれたことに感謝の気持ちで一杯です。(この親の承認は父母どちらもあれば申し分ないのでしょうが、父親だけだと十分な効力を発揮しない場面も多いのか・・?とドラマを見ていて感じました。まあ母親の愛情は大前提というか、父親は仕事という言い訳もつけられ実際多くの家庭で母親が子育ての主導権を握っている中、母親からの承認を得られない子達が淋しさを感じるのは必至かもしれません)
 
 
私は常々、教育現場における課題は先生や保護者で抱え込む必要はない、地域や民間企業で働く社会人など、多くの大人の手を借りて社会全体で子供達を育てていく環境を作るべきだと思っています。最近は、それが先生の業務負担軽減にも繋がると信じています。いじめ問題を考えるにつれ、そうした環境から生まれる子供達にとっての「ななめの関係」がどれ程有意義なものか、教室という世界を広げ、自分らしく頑張るための気づきや勇気をもらえる場になり得るか、改めてビジョンを膨らませることができました。
 
 
ドラマの中でも何度か出てくる「なんで人の痛みが分からないのか」という、いじめの被害者からの悲痛な言葉が今も胸に刺さります。いじめをするというのは精神的に未熟なことの表れです。親は無関心で承認欲求が全然満たされていない一方、大した苦労もせず人の痛みが分からない子、これは一番怖いかもしれません。こういう痛みは経験を以て知ることができれば一番身に染みるのかもしれませんが、みんなができるとは限りません。そんな時、苦しかった・悲しかった過去を乗り越えてきた大人達の力強い言葉に出会えることが子供達にとってどれだけ大きな財産になるか。
そしていじめは生徒同士だけでなく、先生から受ける場合もあります。いじめを見て見ぬフリをする教師も加害者です。いずれにせよ、学校というのは狭いコミュニティです。よりオープンな場となり、人間関係のいざこざで人生を狂わす子供達が一人でも少なくなることを願ってやみません。
 
 
今週はちょっと重めのテーマでしたが、一度深く考えることができて良かったです。それではまた👋