女性が女性らしくあるための考察~フェミニストになることは必要?~

前回、大河ドラマ篤姫』に感化され、先代の女性達への敬意や女性であることの可能性を信じたいといった話について書きました。

その約1週間後、小田急線で刺傷事件が起き、大きな衝撃を受けたのです。それは、無差別であるという怖さがあっただけでなく、「(男にちやほやされていそうな)女性」という、なんとも主観的でミソジニー女性嫌悪)を身勝手に膨らませた結果の悲しい事件であったのです。

 

こういった無差別事件はいつ自分の身に降りかかってくるか分からない、まさに「運」なのです。なので、そういった悲しい事件を起こそうという人がこの世から少しでもいなくなればいいと思いますが、そのためには、なぜそういった感情が沸くのか、事件後に「フェミサイド」「ミソジニー」に関する事件と言われる背景にあるフェミニズムの思想とは何なのか、そんな憎まれるべきものなのか、きちんと理解したいと思い今回、上野千鶴子さんの本を手にとりました。

 

結論、フェミニズムは「女性が女性らしくあること」のために、嫌なことは嫌と主張する、女性にとって生きやすい世の中を築くために奮闘してきた女性達の歴史・努力の蓄積であり、一女性として感謝こそすれ否定はできないものであるということ、一方でやはり私はフェミニストには(少なくとも今は)なれないなという感想を抱きました。

前者については、本をぜひ手にとってどのような葛藤を女性達が抱え、闘ってきたのか実際読んでいただければと思いますが、後者は私ならではの感想なのでもう少し触れておきます。

 

私がフェミニストになれないなと思ったのは、〇〇派、〇〇ニストになるには、強いエネルギー、信条がないといけないからです。でも、人間の価値観に絶対的な正解ってなくて、また一人の価値観も時を経るにつれ変わっていくものだと思うんです。そんな中で、断固として一つの主張を通すことは個人としても難しいと感じましたし、多少なりとでも他人の思想を否定することにも繋がると思ったので、そんな攻撃性を持つに至る程の動機はないなと感じたのです。

 

女性が蔑まれたり働く上での権利や自由を奪われてきた事実はたしかにあったのかもしれませんが、一方で男性は男性社会の中で辛いこと、逃げ出したいことがあったはずで、フェミニストって自分を定義しちゃうと、そういう男性ならではの苦しさ含め、自分以外の価値観を持つ人のバックグラウンドに目を向ける余裕がなくなってまうのではないかと思うんです。自分達の流派を盛り立て、世間にムーブメントを起こすのは大変なので、いかに強く主張を押し出していくかに相当のエネルギーを注ぎこまなくてはいけないのもあるのでしょうが。

 

ゆとり教育を受け「みんな違ってみんないい」の価値観を持つ今の20代男性は、依然として古い体質を持つ企業の組織風土に嫌気がさし、専業主夫願望を持つ人も多いと聞きます。また、女性は女性で、やはり会社組織のストレスから逃げ出し、結婚を機に自分のコントロールが効く家庭を築きたいと思う人はいまだ多くいます。女性の場合は専業主婦という選択肢がかなり公に認められていますが、男性の場合は肩身の狭い思いをやはりするでしょう。そういった点で、男性たるものずっと働かなくてはいけないという、重荷を彼らなりに背負っているのです。(フェミニストの方は女性が働きたい前提で話される方が多いような気もしますが、働かないで済むならその方がいい、趣味はやりたいけど・・という、女性の私から見てもわがままだなあと思う願望を抱く女性は多くいます笑)

また、自分も働いてて思うのですが、職場でも何かと女性の方が得することも多いですよね。男性よりは詰められなかったり、長時間の残業が必要なポストは、なんだかんだ理由をつけてパスできたり。それはひとえに、これまで権利を主張し、NOを突き付ける勇気のあった女性先輩方の努力の賜物だろうとは思いますが、彼女達がフェミニストであったかはまた別の話です。働いていておかしいと思うこと、変えたいことを主張していくことは男女問わずあるべきことなので。

ともかく、現代の職場はかなり女性に優しくなっている。その中で男性社員の方が割に合わないなあ、別に欲してもないのに男性らしさを押し付けられるなあと憤りを感じる可能性が高くなっていると思うのです。会社のおじさんで「ここで男を見せなきゃ」みたいな発言をする人がたまにいて、これも対象は男女問わずセクハラになるんじゃないか・・と思いつつ、女性であればそこに乗っかって「あ、じゃあお願いします♪」みたいに上手く使っている人もままいるのではないでしょうか笑

 

こういうことが増えていく中でも「女性の権利」ばかりに焦点を当て続ければ、そりゃアンチフェミニストになる男性が出ても不思議はないわなと思うわけです。上野先生の本の中で、主張し続けなければ女性はセクハラされ放題、おじさんたちがセクハラ発言に怯えてるくらいがちょうどいいといったご意見がありましたが、これには頷く一方でやはりそれとフェミニストは自分の中では結びつかないなと。嫌なことは嫌ということとは、男女問わずすべきことですし、むしろ性を意識しすぎることこそ無用な争いを生むのではないかと思うのです。そうはいっても性別の差を超えることはできず、男性らしさ・女性らしさの概念から完全に解き放たれることって人間でいる限りないのでは?と思うので難しいところですが。。(ワンピースなど可愛らしい服装は純粋に楽しみたいのもありますが、やはり男性の視線も気にして「女性らしさ」を感じてほしいというのもありますし)

 

勿論、フェミニストの思想に疑問を持つからといって、勝手に絶望し勝手に女性を憎み、無作為に人を傷つけるようなことは許されません。しかも今回の事件は個人的な女性経験に基づく、なんとも身勝手な犯行でした。男性同士は互いに無関心といいますが、まあ女性には興味があるから恨みにも繋がるのでしょう。男性はみんなマザコンとも言います。

女性としては、誰と付き合うかを選ぶ権利は勿論ありますが、告白されたりアプローチされる側になることがやはり多いので、人として最低限のマナーを守って、相手の立場や気持ちも思いやりながら上手く生きていくしかありません。その上で、好きな女性と付き合えないからといって、内省もせず憎悪に昇華させ、あくまで他人のせいにする人は、人間として弱いとしか言いようがありません。そうさせる環境や教育を身近なところからでもいい、少しでも変えてそういう「弱い」人間を生まないよう何ができるかを考えるばかりです。

 

とりとめのない文章になってしまいましたが、最近悶々としていたことを言葉にして自分なりに整理したつもりです。暫くは電車を乗るのにも警戒心を抱かざるを得ませんが、息苦しい社会がそこにあるなら、共に少しずつでも明るい方向に変えていける一人に、私はなりたいです☘

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